*山岸清子のブログ*     人とのふれあいを通じて見える素敵な中国を紹介します。
by sayang0522
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現代の竜泉鎮(九)

九、その後の彼ら


その後、北京へ戻った私は、関山氏と面会した。

北京へ戻ったところで、関山氏は奥様と一緒に私の滞在するホテルへ訪ねて来て下さったのである。その時、初めて関山氏と面会したのだが、私たちはまるで旧知の知り合いのように、親しく会談した。あの竜泉鎮へ行って来た、というだけで私たちには話したいことが山ほどあった。

私は、竜泉鎮の様子やそこで出会った人々のこと、そこでの出来事について、およそ今書いてきたようなことを話した。関山氏は、時々、村の中の位置や名前を確認して自分の記憶と照らし合わせながら、「そうですか、あの村はまだそんな感じなんだねえ」と懐かしそうに聞いていた。インターネットカフェや、パン屋があること以外は、村の中は当時とそれほど変わってはいないようだという結論になった。彼ももうずっと竜泉鎮へは行っていないそうで、奥様に至っては一度も行ったことがないのだという。彼女も私の話を聞いて、いつか、3人で行きたいわね、と言った。

私の“報告”を聞いた後、関山氏は改まって「竜泉鎮へ行ってくれてありがとう」と言った。日本人のあなたがその村を一人で訪ね、村人と交流したことは本当に大きな意味がであったと。そして、何より、関山氏本人の日本人に対する“懸念”を取り除き、わずかな希望を持たせてくれたと。

そして彼は、是非、関山氏の書いた『竜泉鎮』を日本語に翻訳するとともに、私自身が『現代の竜泉鎮』として今回の旅の記録を書いてみてはどうか、と言った。それはとても素敵な事だと思った。私はそれに同意し、時間がかかってもそれを必ず行うことを約束した。

 

それから、もう6年も経ってしまった。

その後、私は、本格的に中国の北京へ移り住んで生活を始めたが、現地での生活や仕事に落ち着くまで少し時間がかかりめまぐるしい生活の中ではなかなか机に向かうことができなかった。その後、結婚と出産を経て、今は日本で子育てをしている。とりわけ出産は私の生活をがらりと変え、なかなかこの仕事に手をつけることができないまま、時間が過ぎてしまった。ただ、めまぐるしい子育ての間も、竜泉鎮の約束は忘れたことがなかった。

そして今、ようやく、これを書き終えることができた。


さて、その後、竜泉鎮の人々はどうしているだろう。幸せなことに、今でも連絡を取り合うことができている。インターネットやSNSのお陰で、ものすごく遠くにいるのに、とても身近に感じられる。本当にありがたい時代である。

瀋陽から輝南まで乗った列車の中で知り合った大学生の吉府くんは、その後、山海関に近い、新城という街にある大学の大学院へ進学した。彼は律義にも、事あるごとに身辺の報告をくれ、一度、大学のキャンパスに招待してもらったことがあった。その彼は性格も穏やかで、将来も有望だったので、私は、同じ山東繋がりで、王義に紹介したことがあった。同じ年頃の彼らは、丁度二人とも恋人探しの真っ最中だったので、中国のSNSを経由してそれとなくお互いを引き合わせたのだ。残念なことにお互いの恋人に求めるイメージとは違ったらしく、“お見合い”は失敗に終わってしまったが、友達にはなったらしい。今、彼は大学院を卒業し、北京のシリコンバレーと言われている中関村のIT企業に勤めている。

一方の王義は相変わらず山東と行き来しながら、家業を手伝っている。まだ結婚はしていないが、本格的に竜泉鎮で洋服店を開こうと計画しているという。やり手の芳静の後ろ盾があれば、ことによると案外大成功するかもしれない。また、王義は家族を代表して、事あるごとに近況を報告してくれる。

莫超は、数年前に東北の男性と結婚した。それも、最初は王義が教えてくれたのだが、それを聞いて私は早速莫超に電話して「おめでとう」と伝えた。相手は芳静の紹介でやはり役人の立派な人なのだそうだ。中国では役人が一番安定しているので生活していくにはいい条件だ。それに、写真でみるとなかなかの男前だった。電話で話した時は、莫超は久しぶりに話せたのが嬉しいらしく、自分の結婚のことより、北京の暮らしにはなれたかとか、どんな部屋に住んでいるのかとか、私のことを矢継ぎ早に聞いてくれた。明るく、しっかりものの彼女なら、どんな困難も乗り越えて、幸せに生活していくだろう。

不思議なことに莫超が結婚した頃、丁度私も結婚が決まった時だった。芳静の餃子作りの特訓が功を奏したのかもしれない。実際、私はその恋人に手作りの餃子を作ってふるまった。

莫超によれば、芳静の体調は今ではすっかり回復し、元気にその才能を発揮しているらしい。文文ももう小学校に通い、逞しくなったそうだ。私が結婚した時、そのことを一番に報告したのは芳静だった。メールだったが、芳静はとても喜んでくれ、「これで、やっと心配事が減ったわ」とまで言った。そして「旦那さんをつれて、竜泉鎮へ来るのを待っているよ」と言ってくれた。

みな、それぞれにがっちりと幸せの歯車を回転させて、力強く生きている。生きていく上では、病気や困難に直面することもある。その時、力強く前向きに生き抜く力は本当に大切だ。“自分の生活は自分で切り開く”あの山東移民の底力を学ばせて頂いたように思う。そして、家族や親戚が仲良くし助け合う力も学んだ。

子育てや、仕事など、私も時に悩む事がある。その時、あの人たちなら、どう考えるのだろうと考えてみることがある。中国式子育てや仕事との両立について、今度、芳静や莫超に聞いてみようと思う。彼女たちは今度、私の良い相談相手になりそうだ。

他にも、あの村の事を思い起こすと、いろいろなことが思い出される。餃子を一緒に作ったあの食堂の女将が良く笑っていたこと。その娘さんがおしゃれでかわいらしかったこと。カバンを直してくれた文房具屋の奥さん。そういえば、あのパン屋はその後どうなっただろう。村に根付いて商売を上手にやっているだろうか。それから、あの“黒車”の龐氏。彼はその後、素敵な伴侶を見つけることができただろうか。あの不器用な東北人が願わくば嫁さんをもらって暖かい家庭を築いていることを望む。みんながそれぞれに楽しく幸せな生活をしていてくれるといいと思う。

私の小さな娘がもう少し大きくなるまで、しばらくあの村には行けそうもないけれど、海を越えたあの小さな村に、私の大好きな人たちが今も慎ましく一生懸命、コツコツと生活していると思うだけで、暖かく優しい気持ちになる。いつか家族をつれて、あの村を訪れたいと思う。

私の竜泉鎮の物語はこれで終わりだが、竜泉鎮の朝焼けと、人々の優しいぬくもりは一生忘れない。

                                          (完)

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# by sayang0522 | 2017-06-23 18:00 | 日中交流 | Comments(0)
現代の竜泉鎮(八)

八、竜湾 竜泉鎮との別れ

竜泉鎮には都合5日間も滞在した。

楽しいひと時であったが、村の人々にとっては慣れない外国人にいろいろ気を遣ったことだろう。宿舎では滞在中、途中から隣の雑居部屋に、客が入った。行商か何かの人たちで、男だけの4、5人の客だった。莫超はその時、血相を変えて私のところへ来て、隣に客が入ったので多分うるさいと思う、としきりに謝るのだった。それから、貴重品はしっかり管理するようにと念を押した。本来、そのような客が寝泊まりするための宿である。却って楽しいよ、と言ったが、莫超はしょっちゅう、階上へ様子を見に来ているようだった。

良い意味か悪い意味か、中国の人は、日本人を「礼儀正しく、清潔好きで、気難しい」人々だと考えているようで、様々なところでそう言われたり、言葉や態度で感じることがある。それは時折、彼らを疲れさせるようだった。逆に私は私で、中国の人はこんな細かいことに気を使わない人たちだと思っていた。別に悪い意味ではなく、もっと大雑把で細かいことを気にしないイメージを持っていた。ところが、実際には突然現れた旅行客に対してでさえ、なるべく不便がないようにと何かと取り計らってくれるような人々なのだ。もっとも中国では個人の“倫理的”素質の格差がとりわけ大きい国であるとは以前から思っている。少数になったが、外国人とみれば平気で金をせびってくるような人だってある。これは、教育、とりわけ家庭の中での教育の格差の影響だろうと思う。日本との戦争だけでなく、その後の国内での長年に渡る大混乱が倫理観の荒廃を招いた結果である。それを立て直すには相当の時間がかかるだろう。


もう明日にはこの村を出るという夜、莫超と王義は、最後に一緒にシャワーを浴びよう、と言った。私たちはもう遠慮もなしに服を脱ぎ捨てて、遠慮なくシャワーを浴びながら、大声でおしゃべりできる関係だった。パジャマに着替えて、髪をドライヤーで乾かしながら、私たちは引きづづき部屋でおしゃべりをした。一度くらい一緒に食事に行けばよかった、と後悔した。普段、彼女たちは、おばあちゃんや叔母のいる母屋で食事をしていた。まだ若い二人は外に出て外食することなどほとんどないようだった。一度私が誘ったら、明らかに遠慮しているようだった。その代わり、朝や夕方には莫超か王義のどちらかが、家で作った煎餅や、トウモロコシ、アワのお粥、おやきなどを差し入れに持ってきてくれて一緒に食べることがあった。この家族には本当にお世話になりっぱなしだった。

王義は自分で作ったアクセサリーを私にプレゼントしてくれた。大ぶりのピアスで、ぶら下がっているのは水晶なのだそうだ。「水晶はね、病気や災難から守ってくれるのよ」と言った。莫超はあきれ顔で「そんなの、あげるの?それ本当に水晶なの?」とたしなめた。確かに大ぶり過ぎて、実際には使えそうもなかったが、気持ちが嬉しかった。

そこへ、「清子、明日帰るんだって?」と芳静がやって来た。もう会えないかもしれないと思っていたので、彼女の訪問はとても嬉しかった。彼女は「ああ、ああ、寂しくなっちゃうねぇ」とわざと年寄りみたいない言い方をした。そうして、今回滞在して満足できたか、見たいものは見れたか、と聞いた。私は、デジカメで撮った写真をパソコンで開いて見せた。莫超も王義も4人で寄り集まってパソコンの画面を見た。よく知っているはずの村のことなのに、写真でみるとまた新鮮なようで、「ここ、いい景色ね」とか「もう、この花咲いてた?」などと楽しそうに見入っている。村の人が映っていると芳静は、「ああ、これはあそこの娘だ」とか「これは某の家だね」などと言った。もしかすると彼女が鎮政府そのものなのではないかと思うほど、村の中のことを全て把握しているようだった。とても偉大な女性に見えた。そうして、一頻り写真を見てから、彼女は「次はさ、旦那さん連れて来るんだよ。楽しみにしているから」と言った。私は、本当にそうできたら面白いことになるな、と思った。

写真を見終わると、芳静はこんな提案をした。「明日の午前中、みんなで竜湾へ遊びに行ってきたら?」と。竜湾というのは、竜泉鎮の、幹線道路を挟んだ向かい側の山の上にある火山湖で、ちょっとした景勝地なのだそうだ。莫超も、王義も、「いいの?」と嬉しそうに同意した。案外、普段は自由な時間はなく、連れだって遊びに行くのは久しぶりなのだそうだ。芳静の素敵な提案で、私たちは解散し、明日の朝を楽しみにすることにした。


翌日、朝食を食べてから、莫超と一緒に米屋の方へ行ってみると、王義と芳静のかわいい一人息子文文が一緒に待っていた。その日は芳静の旦那さんが車を出してくれるという。かわいい文文も一緒に行くと聞いて私は更に嬉しかった。芳静は「待っているから、行っておいで」と私たちを見送った。

竜湾は、急な斜面を登っては行くが、本当にすぐ近くにあった。距離にして5㎞くらいだろう。竜泉鎮のこんなに近い所にこんなに素敵な湖があるとは全く知らなかった。竜湾はずっと昔の火山の噴火でできた湖で、もう少し整備すれば立派な観光資源になりそうだ。

私たちは文文も一緒に、その神秘的な湖の周りを散歩した。芳静の旦那さんは遠巻きについて来ながら私たちを見守っていた。私たちは、走ったり、くっついたり、自分たちの写真を撮り合ったりした。急にお花摘みに精を出したり、そうかと思えば互いに湖に落とそうとして脅かしたり、まるで子どものようにはしゃいだ。私たちはわけもなく何度もなんども抱き合ったり肩を組んだ。たった数日一緒にいただけなのに、莫超も王義も文文も私にとっては兄弟のような大切な存在になっていた。

竜湾を満喫して米屋へ戻ってくると、芳静がカウンターで事務処理をしながら待っていた。乗り合いタクシーが来るまであと30分ほどあった。この米屋のカウンターは竜泉鎮へ来て、芳静に初めて出会い、パスポートを検められたカウンターだ。その時は緊張していたが、今となってはとても懐かしい暖かいぬくもりのある場所だった。

カウンターの引き出しの中から、芳静がふいに小さな一枚の写真を出した。おそらくずっとそこに放り込んであったものを急に思い出したようだった。見ると、芳静が20代くらいの、役所の制服を着て赤いネクタイをした証明写真だった。髪は前髪も上げたポニーテール。ものすごい美人だった。それから年月を経た今の彼女も美しいが、若い頃の彼女はまた格別だった。「綺麗だね」というと、芳静は口元だけで笑った。そして何を言うかと思ったら、「わかるでしょう?歳を取るのはあっという間。今が大事。はやく相手を見つけなさい」と言った。

文文はカウンターの脇の椅子に座っていたが、私が帰ると知って泣いてしまった。そんなに一緒にいてあげたわけじゃないのに、文文に泣かれると私もさすがに寂しくなった。彼の隣に座って、その肩を抱いた。「おりこうさん。お母さんを助けて立派な人になるんだよ」というと、文文は涙を拭いて無理に笑って見せた。

乗り合いタクシーが来て、待っていた客が皆乗った。雑貨屋さんも、文房具屋さんも、米屋のおばあさんもみんな出てきて「また帰っておいで」と言った。莫超も王義もみんないつものように冗談を言って笑っているので、最後は寂しい気持にはならなかった。芳静は「また来るんだよ」と言ったきり、外へ出てこなかった。それはとても彼女らしい別れ方だった。車が出発すると、莫超も王義も文文も、みんな見えなくなるまで手を振っていた。

私は、なんとなくいつかまたここへ帰ってくるだろうと思った。


竜泉鎮を出ると、私は吉林省の西にある通化という街へ行くことになっていた。靖宇県から通化へは高速バスでおよそ3時間ほどで行ける。そこで、私は靖宇県へ着いたらまず、そのバスターミナルを探さなければならなかった。

県城について指定の場所で村人たちと一緒に車を降りると、不意に私の腕をつかむものがあった。誰かと思ったら、あろうことかあの龐某氏だった。先ほどの乗り合いの運転手は彼の仲間で、私が村から出る時には彼に連絡が行くようになっていたらしい。

厄介なことになったな、と思ったとたんそれがわかったように彼は「心配するな。ちゃんとバスターミナルへ送って行くから」と言った。確かに、大きなバックパックを背負っていては、バスターミナルを探すのも一苦労だった。彼の“黒車”に乗って、ターミナルへはすぐについた。彼は手際よく通化行きのバスの時間を調べてくれながら、ペットボトルの飲み物をいくつか買ってきて持たせてくれた。もう出発するというとき、彼は「やっぱり、来週の婚礼に出てくれねえか?」ともう一度言った。野暮ったいけど、いいやつだなあと思った。「その婚礼で、もしかしたら、素敵なパートナーが見つかるかもしれないよ」というと、彼はまた、あの自虐的な顔で笑った。そうして、その顔のまま私の乗ったバスを見送ってくれた。

 莫超が「東北の男はね~」と言った言葉を思い出す。彼らは、情熱と子どもっぽさが紙一重なんだと思う。そこが不器用と言われるゆえんなのかもしれない。多分、もう彼に会うことはないだろうが、この男の先行きと、東北の人々の生活に良いことがあるように願わずにはいられなかった。
                      (つづく)

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# by sayang0522 | 2017-06-21 18:00 | 日中交流 | Comments(0)
現代の竜泉鎮(七)
七、生活の中の現実 闘病 嫁不足 ゴミ処理問題

 
ある朝、莫超が部屋へやってくるなりこう言った。

「叔母がね、清子と一緒に出かけられなくて申し訳ないって、言ってたわ」。芳静は先日「出来れば一緒に村や県城を周りたい」言い、出かけられそうなら声をかける、と言っていたが、それから彼女から連絡はなかった。その事を気にしているのだ。「仕方ないよ。忙しそうだもの」というと、莫超は「それもそうだけど」とためらった後、「実は彼女、体調が悪いのよ」と言った。なんとなく思い当たる節があった。先日一緒に食事をしたときに、快活だが疲れやすい感じを受けた。「大丈夫なの?」と聞き返すと、彼女は昨年甲状腺の手術を受けたのだという。だいぶ良くなったが、まだ体調に波があるという。

そうだったのか、と少し切ない気持ちになった。私の家族にも甲状腺ホルモン亢進症、いわゆるバセドー病を患った人がいたので、“甲状腺”という言葉にも、その病気についてもある程度イメージできるものがあった。今はきちんと治療すれば治らない病気ではないが、治るまではしっかり服薬などで管理しなければ命にもかかわることもある。何より、ホルモン分泌に関わる病気なので、症状が出るととても身体が辛い。勝気な彼女だが、人知れず病と闘っていたのだった。いろいろな病気がある。心はハツラツとしているのに、思うように体調管理できないのは本当に辛いことである。

とはいえ、彼女はもう手術をして、必要な治療を受けているので、そのうち、体調も安定してくるだろうと医者には言われているそうだ。

私はこの時初めて、莫超や王義が、その叔母を“頼って”ではなく“手伝う”ために山東から東北へ来たことを知った。それから、芳静がいつも首にスカーフ巻いている理由も、なかなか姿を見せない理由も、そして、あのかわいい文文がいつも少し寂しそうにして姉たちに寄り添っている理由も、良く分かった。あのぐらいの子供にとって、母親の調子が悪いのは一番寂しくて不安なことだろう。子どもと存分に関われないことは、芳静にも辛かっただろう。

病気は気の毒であったが、こうして助け合える親戚があるのは幸せなことだと思う。仕事の面でも、幼い一人息子の面倒をみることでも、二人の姪っ子たち助けは大きかったに違いない。私はこの二人の姪っ子たちの健気さとともに、彼女たちの母親たちにも思いを馳せた。芳静とその姉妹たちはとても仲が良いに違いない。姉妹は妹を想って、それぞれの娘を東北へ送ったのだから。



「それでね」。話に区切りがつくと、莫超は話を本題に戻した。「県城へ行く乗り合いタクシーが出るから、県城へ行ってきたらどう。県城へ着いたら、その運転手にそのまま案内してもらうように頼んであげる」という提案だった。運転手は村の人ではないが、遠くない村に住んでいる人で良く出入りしている人だから安心だということだった。それならばと、私はその乗り合いタクシーに乗って、県城へ行ってみることにした。

何人かの村人と一緒にタクシーに乗った。それぞれ、買い物や病院に行くのだそうだ。村を出ると県城までは20分ほどでついてしまった。村の交通は本当に便利だった。街の中心で村人たちを降ろすと、運転手は後部座席の私を振り返って、「どこへ行く?」と聞いた。彼の顔はひげやまゆ毛がやたらに濃くて、目がぎょろぎょろ大きい、いかにも東北の男という容貌だった。ちょっと芳静の旦那さんに似ていた。私は他に行きたいところもなかったので、楊靖宇将軍の祈念館に行こう、と言うと、運転手はまた振り返って、「あんた、日本人だろ?あんなとこ、やめた方がいいよ」と言い、「あんなとこ、日本人の悪口ばっかりだぞ」と付け加えた。彼に限らず、このような戦跡資料館を日本人に見せるのは忍びないと思っている人は案外多い。「大丈夫だよ。歴史の勉強だから」と言うと、彼は何も言わずに車を動かした。

靖宇県の楊靖宇祈念館は少し高台にあって、駐車場からも小高い丘を登った先にある。丘には、美しい植物や花が植えられて、綺麗に整えられていた。そこを登って祈念館の入り口に辿りつくと、あろうことかその日は休館日だった。「ほらみろ。ほんと見る必要ないんだよ」と運転手は嬉しそうに言った。仕方なく、私たちは、またその美しい丘を下った。そこが全体的に公園のようになっていたので、それだけでも良い散歩だった。歩きながら運転手は「あんた、本当に日本人か?」と何度も聞いた。その度にあの怖い顔を近づけて覗き込むので、私はいちいち立ち止まらなければならなかった。彼の名前は龐(ホウ)某と言った。次に「結婚しているか?」と聞いた。「してるよ」私はとっさに嘘をついた。龐某は「はは、うそだな」と笑った。それについては言及を避けて、私は彼の事を聞いてみた。彼は36歳で独身。竜泉鎮にほど近い村に、母親と二人で住んでいるそうだ。率直に言うと、彼はものすごくダサい。ひげ面の濃い顔にスポーツ刈り、服装も、スラックスに柄のジャンバーを羽織っているが、そのスタイルが何世紀も前のもののように見える。本人はそれでも格好いいつもりのようだ。ただ、自分の事を話すときは、ちょっとふてくされたように伏し目がちになるところはちょっとかわいい。おそらく農家だけでは足りず、黒車(違法タクシー)で稼いでいるのだろう。黒車と言っても、中国では小遣い稼ぎによくやっていることで、現地の人々には却って便利に使われている。へんにぼったくったりもしない。それでもなんとか生活費を捻出しようと仕事に出るのだから偉いと思う。人手のない農家は本当に貧しい。

彼は善良な人間だった。黒車を営業していながら、お金については遠慮がちで、外国人だからと言って足元をみるようなことはしなかった。観光地まで案内させて半日チャーターしたのに、竜泉鎮までの片道料金程度の数元しか要求しなかった。私は後で「助かった」と感じた分だけ上乗せしてお金を支払った。

楊靖宇祈念館を出発すると、そのあたりの景色の良さそうなところを回り、途中、わざわざ車を降りて記念撮影までしてくれるというサービスぶりだった。そして、お昼前に竜泉鎮へ戻ることにして、村の中で一緒に食事をすることにした。お礼をしながら、彼の生活などについて話を聞こうと思った。

王義に教えてもらった村の焼肉屋へ入ると、そこの女将が「あら」と言った。私に言ったのではなく、彼に向って言ったのだった。「恋人ができたのかと思ったわよ」と言われて、龐某氏は自虐的な顔をして笑った。その女将は普段から彼をかわいがっているようだった。彼は生粋の東北人だった。不器用で口数が少なくて、ぶっきらぼうだった。ビールを飲みながら、何かつまむ程度であまり食べもせず、ほとんど女たちの話を聞いていた。女たち、と言っても、その店の女将がほとんど一人で話していた。女将によれば、東北の嫁不足は深刻なのだそうだ。東北の貧困もその一因となっている。その上こんなに不器用ではなかなか嫁の来手もないというものだと。しかもこの東北で独身のまま一生過ごすのは本当に寂しいものだと。

食事が終わると、私たちは食堂の駐車場で別れたが、別れ際、彼は私にこんなことを聞いた。「来週、友達の結婚式があるんだけど、一緒に参加してくれないか?」。かわいそうに、彼には一緒に参加するパートナーもいないのだ。あいにく、私は来週にはもう北京へ帰らなくてはいけなかった。龐某氏は哀愁漂うひげ面で頷き、愛車で村の一本道を走り去って行った。



ところで、村の中を歩いていて、とても気になった事がある。それは、山道に限らず、小川のほとりにゴミが入ったビニール袋がいくつも投げ捨てられていることだった。自然豊かで、美しいはずの風景が、ゴミがあちこち散乱していることによってひどく悲しい風景になってしまっている。日本でも、何十年も前の高度経済成長期には同じような事があった。しかし、この村では、経済や人の倫理感の成長より先にものすごい勢いでモノが流入してきている。“プラゴミ”の処理施設や回収システムなどが確立していないところに、自然には還らない“プラゴミ”が溢れている。それにしても、人の衛生観念や倫理感さえあれば、もう少しどうにかなるのではないか。よく、中国の人は様々な場面で「人が多いから仕方がない」ということがある。確かにそういう部分もあるだろうが、まずは、衛生観念や環境保全といったことの教育が重要だと思う。ゴミの問題は必ず、人間自身に帰ってくるのだから。村が、今後どんな形で発展していこうとするにしても、この問題は早急に解決しなくてはならないことだろう。

それについては、芳静と後で率直に話した。彼女は「それは確かに早いうちに解決しなくてはいけない問題です」と言い、決して「仕方がない」とは言わなかった。

ただ後で、これは先進国に住む人間として少し傲慢な考えだったと反省した。仮に日本で、ゴミの処理施設や収集システムが麻痺したとすれば、例え田舎であっても、たった数日であちこちにゴミの山ができるだろう。そこへくると必要なものだけで生活している中国の田舎の人たちは、私たち日本人よりよっぽど慎ましくゴミを出さない生活をしている。そう考えると一概に倫理観がどうなどと批判することは適切ではない。彼らに言わせれば、自然に帰らない物質や過剰包装にこそ問題があると思うだろう。

美しい自然や人々の健康が害されないうちに、田舎のゴミ処理システムが発達することを願うばかりである。
                         (つづく)

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# by sayang0522 | 2017-06-19 18:00 | 日中交流 | Comments(0)