*山岸清子のブログ*     人とのふれあいを通じて見える素敵な中国を紹介します。
by sayang0522

『竜泉鎮』の作者と背景

『竜泉鎮』は、関山氏が2009年に中国の大手ブログサイトである「新浪博客」に発表した自伝的小説で、およそ5~60年前の中国東北地方の農村の生活を描いたものである。その際のペンネームは「関山度若飛」であったが、この作品を日本語に翻訳して日本のブログに転載するにあたって、「この名前は日本人には意味もわからないし長いので、“関山”にしては?」と本人から提案があり、ここでは「関山」というペンネームを使うことになった。

作者の関山氏は、1945年に中国東北部にある吉林省通化県に生まれた。若いころから、同地で小学校の国語の教師を務めた。作品中にあるように、原籍(祖先のもともとの出自)は山東省の膠州であり、そこを自分の出自として意識しながらも、自分が生まれ育った中国東北部に対する愛情もまた深い。これは祖先からのつながりを大切にする中国の人にとっては不思議なことではないが、氏の生まれ育った地域に対する特別な愛着は、本作にも読み取れる。

教師を定年退職した後、一人娘が大手企業へ就職して北京に住んでいたこともあり、関山氏は妻と共に、北京の中心部へ移り住んだ。現在、中国の首都北京の人々の生活や文化、産業の発展について写真に収め、新浪博客(ブログ)上で発表している。国語の教師であったためか、その文章は美しくてわかりやすく、また暖かい。写真作品もまた、中国の人々の生活を暖かい目線で捉えているのが特徴で、度々、同ブログニュースのトップ画面で取り上げられている。

作者のもともとのペンネームである「関山度若飛」とは、‘関や山を飛ぶように越える‘という意味で、出典は「木蘭(ムーラン)詩」(北宋時代の詩で、少女が年老いた父親の代わりに徴兵に応じ活躍する内容の詩)である。一般的にも難関を勇敢に突破することの例えとして使われることもあるが、古来より“関”と言えば山海関(万里の長城の最西端で渤海湾に達するところ)を指すことが多い。この山海関は、地理的にも歴史的にも、様々な意味で中国東北地域を特殊な地域として守る要衝となってきたし、歴史上この関をめぐる様々なドラマが生まれた。

中国東北部(主に、遼寧省、吉林省、黒竜江省の東北三省を指す)は清朝を興した満州族の故地、聖地として、16世紀中ごろから長く封禁の地とされた。それが歴史的地理的にこの地を特殊な地域たらしめた大きな要因でもあるが、この時も山海関は中国本土との関所として利用された。清朝末ごろになると、飢饉を逃れて河北省や、山東省からこの肥沃な東北黒土を求めて、この関を違法に越えて移住する人々が多くなった。とりわけ、東北地方の海の入り口である大連港と渤海湾を隔てた先の山東半島からは海路で東北へ渡る移民も増えた。このように生きるために「関山」を越えて肥沃の地を求めた貧しい農民たちが、現在の東北の地に根を張り知恵を使って生活する様子が、この物語の主題にもなっている。

いずれにしても作者の、東北や山東、並びに中国の人々を想う心はこのペンネームからも伝わってくるところである。

私が、関山氏と知り合ったのは2008年末ごろで、インターネット上にアップされた記事について質問したことがきっかけであったと思う。関山氏は、私が日本人であることを知りながら、中国の文化や習慣などについて大変様々なことを教えて下さり、私も、中国の一般の人々の考えなどを知りたい時などに、よく相談させて頂いた。主にはメールでのやり取りであったが、国や年代を越えて、私たちは様々な意見交換をした。

その中で、氏の父親はかつて「抗日義勇軍」に参加して日本軍と戦った経験を持つ人であることを知った。「抗日義勇軍」とは、満州(現中国東北部)を侵略し始めた日本軍に対抗して組織された、農民の自衛組織である。当時中国政府は、国民党と共産党との内戦状態にあり、地理的に特殊な東北三省はほとんど放置されていたことから、東北の人々は自ら立ち上がるしかなかった。日本軍の侵略は激しく、どこでも激戦が繰り返され、多くの一般庶民が犠牲になった。それゆえ、関山氏は日本に対して決して良い気持ちを抱いていない。日本の動向にはいつも懐疑的でさえある。しかし、彼の優れた人格と知性は、日本の民衆もまた同様に“戦争”の犠牲者であったことを知っているし、両国の民衆同志の友好を堅持していくことがこれからの平和のために大切であることを知っている。この辺りについても、私たちは、率直に、涙しながら、時には夜通し、語り合った。

氏に会った時の印象は、いかにも学校の先生らしい、温厚で、真面目な感じの印象だった。60代半ばを過ぎているとは思えないほど、ほっそりした長身の身体は真っすぐで、とても格好よかった。隣には常に、柔らかい笑顔の夫人を伴っていて、その夫人の柔らかさが、真面目で堅物な自分自身の印象を和らげていることをよく知っている感じがした。夫人は医師だったそうで、とても頭が良く、日本の事情などについてもとてもよく知っていて、やさしく夫の意見をフォローする場面もあった。とても素敵なご夫婦であった。

『竜泉鎮』は、当時の中国の農村の人々が、どんなふうに物事を考え、どんな文化を持ち、どのように助け合って生活してきたかを、子ども時代の作者の目線で生き生きと描いている。それによって、東北の山村が単に貧しい地域であるという、私の中のイメージを払拭したばかりでなく、そこに住む人々をより身近な存在にし、国や民族の違いがあっても、人間としての考えの根っこはあまり変わらないことを教えてくれ、また隣国に対する理解も深められる作品であると思う。

その意味で、私は、この作品を多くの日本人に紹介したいと思うと同時に、是非、この竜泉鎮に行ってみたい、と思った。そこで私は関山氏に、思い切って、「竜泉鎮へ行ってみようと思うが、どうだろうか」と尋ねてみた。日本人である私が、作者が大切にしている故郷に足を踏み入れることを、彼は許すだろうか、と考えたのだ。私の不安をよそに、彼は「是非、行ってみてきてほしい」と言った。そして、瀋陽からの鉄道やバスでの乗り換えなどを提示しながら、「旅行の最後に北京へ寄って、村での詳細な様子を聞かせてほしい」と言うのだった。そうして私は、この竜泉鎮へと旅に出tたのであった。

その時のことはまたそのうち、このブログにアップしたいと思う。

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# by sayang0522 | 2016-12-19 14:43 | 日中交流 | Comments(0)
竜泉鎮(十)
                                 関山 作 / 山岸清子 訳

 十、黒土の思い出 あの山 あの村 あの人

 次に竜泉鎮へ行ったのは、葬儀の為である。
独り者だった叔父は、労働で草臥れ、くたくたになって、まるで埃のようになって逝ってしまった。やはり、ずっと彼を苦しめていた胃病が、ついには不治の病となり、あの真面目で善良な叔父を連れて行ってしまったのだ。
 以前、叔父は城内の僕らの家でしばらく過ごしたことがあった。その間、父が彼の為に薬を煎じては飲ませてやり、そのせいか叔父の胃病は少し良くなったようだった。すると、叔父はじっとしていられず、竜泉鎮へ帰ると言いだした。家で飼っている豚を人任せにしておけないと言うのだが、僕が思うに叔父はやはり、農村の生活に慣れきっていて、それに、いつも一緒におしゃべりし、賭け事をして遊ぶ同郷人たちと離れると、時間が本当に長く感じられたのだろう。叔父はもう、少しも待ちきれない感じだった。農村の人は、城内の、家の中で何もしないで過ごす穏やかな生活には、どうしてもなじめないのだった。
 父は再三叔父を引きとめた。どうせ、どこへ行っても一人でご飯を食べるのだからと、これからは彼を城内に住まわせて、僕に叔父の面倒を見させるつもりだったが、それでも、叔父はやはり竜泉鎮へと帰って行ってしまった。
 村へ帰って5年も経たないうちに、叔父の病は更に深刻になった。叔父の身の回りの事は、伯母さんや従兄、それに何人かの同郷人が、忙しく面倒を見てくれていた。
 亡くなった時、彼はとても落ち着いて、苦しむこともなかったそうだ。はじめ、胃がひどく重く感じられ食事が食べられなくなり、その後、何日も経たずに亡くなったという。
 叔父は、村の西側へ葬られた。彼が自ら開墾した大根畑の傍らで、畑にはまだ、たくさんの青くび大根が植わっていた。それは、その前の年、叔父がなんでもない時に開墾した二ムー程の土地だ。関東の黒土は真夏に大根の種を播いておけば、その後、何の世話もせずとも、秋にはそれぞれの大根が育った。放牧する人、狩りをする人など、そこを通り過ぎる人は誰でも、自由に大根を掘って持ち帰ることができた。叔父自身はいくつも食べることができなかったが、こうして、叔父の大根畑は同郷人に楽しみを分け与えることになった。
村の気風は、つまり、こんなにも純朴なのであった。

 伯母さんの身体は以前ほど丈夫でなくなったが、僕が来たことを知ると、喜んで、露に濡れながら畑で新鮮な茄子や唐辛子を摘んできては料理を作り、トウモロコシの畑へ行っては、晩秋でもまだみずみずしい物をみつけてきて蒸かしてくれた。彼女の二番目の息子も、小北山から引っ越してきて一緒に住んでいた。村にはまだ古い習慣が残っていて、父母が年老いると、嫁に出た娘でさえも戻ってきて親の近くに住むのである。三番目の息子は、県城の病院へ中国医学の研修に行っていて、研修を終えたら村に帰ってきて、村の人々の病気をみてやるのだそうだ。
 叔父の家のあのオンドルの端に住んでいた、あの二人の男たちは、聞くところでは、甥の方はその後、故郷の諸城へ帰り、叔父の方は、あの、亭主に捨てられた女性が二人の子どもを抱えて大変な生活を送っているのを見るに見かねて、去年引っ越して、一緒に暮らすようになったのだそうだ。村のある人は、彼は人の家の“添え馬”になったと言い、またある人は、実際あそこの亭主は別れたも同然なのだから、“添え馬”なんかじゃないさ、などと、言っていた。
 珍子の家へは二回行った。珍子のお母さんは、もう二人の孫のおばあちゃんになっていた。珍子はとっくに嫁いで、二人の子どもに恵まれたのだった。様子哨の郊外の家へ嫁に行って、今、とても幸せに暮らしているそうだ。あの、薄暗い、石油ランプの下で将棋をしたことを持ちだすと、珍子のお母さんは笑った。今では竜泉鎮の家々にはもうみんな電灯がついたのよ、と。

 竜泉鎮を離れるにあたって、僕はもう一度、叔父のところへ行って手を合わせた。荒涼とした晩秋、墓の上の枯れ草が風に揺れた。一人の年老いた山東人が、関東の黒土に眠った。
 僕は、従兄が僕にくれた板胡を取りだした。静まり返った空と、かつて、木を切りに行った真っ暗な密林、眼前に広がる小さな村。そんな懐かしい風景を望みながら、僕は、一遍また一遍と、“北風吹”の曲を弾いた。

                                                       (完)

※『竜泉鎮』は、作者の許可を得て、翻訳、転載したものです。許可なく転載することを禁じます。

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# by sayang0522 | 2016-12-08 10:00 | 日中交流 | Comments(0)
竜泉鎮(九)
                                  関山 作 / 山岸清子 訳 

 九、雨の夜の騎牛 狼との遭遇

 家に帰って二年も経たないうちに、父はまた僕に、竜泉鎮へ行って叔父としばらく過ごして来てほしいと言った。ついでに城内の病院で、叔父が長年患っている胃病をみてもらって、煎じ薬をもらってくるようにとのことだった。
 僕は、二日ほど滞在して、まず叔父を手伝って部屋を片付けたあと、すぐに叔父を連れて外出するつもりだった。だが、時はちょうど春の種まきの繁忙期で、生産隊の労働力となる人々はみな、小北山の方へ行ってしまっていて、村に残っているのは家畜の世話をするなどで、村を離れられない人ばかりだった。つまり、叔父の代わりに役畜の仕事をしてくれる人を探すのは少し待たなければならなかった。
伯母さんの家へ行くと、伯母さんと伯父さんは、嬉しくて仕方ない様子で、もう叔父にご飯を作らせるわけにはいかないと、僕たちは一緒に伯母さんの手料理をごちそうになった。三番目の従兄は、中学を卒業して、すでに生産隊で会計係を務めており、閑散期には、中国医学を研鑽して薬草をいじったり、村人たちの病気を診てあげたりしていた。
 一番上の従兄は、忙しくて一度も顔を見なかった。小北山の方で、土地を耕す指導をしているとのことだった。家と現場を行ったり来たりする時間もなく、その時期にはずっとあちらへ住みこんでいるのだという。
山では春の初めは雪解け水が流れ出すため、道は常にぬかるんで、歩きづらい上、くぼ地では、牛車の車輪はぬかるみに深く入り込んで、泥道を行く時、ガチャガチャとゆっくり進んだ。そして、天候が崩れるとなると、いつも決まってどしゃぶりになった。
 そんな夜のこと、僕たちが食事をしていると、一番上の従兄が、突然、全身ずぶぬれになって帰って来た。彼は扶民鎮から雨の中を数十キロの山道を急いでやって来たらしい。隊では、初春にジャガイモを植えるが、彼は人を連れて山のはずれへ数千キロのジャガイモの苗を買いつけに行った。一台のトラクターに載せて帰る途中、思いがけず扶民鎮へ至った。ところが、トラクターの車輪が滑って道を外れ、ぬかるみにはまって出られなくなってしまったのだ。前後には民家のない山道でのことで、彼は、ジャガイモの苗が雨にぬれてつぶれてしまうことや、夜になってそれらが凍みてしまうことを恐れ、じゃがいもに掛けるビニールシートを運んでくれる人を探しに、慌てて帰って来たという。トラクターを引き上げるのはそれからのことだ。
 雨の夜道とはいえ、道を熟知している三番目の従兄にとっては、そんなことは大したことではないようで、僕も一緒に行くことになった。夜道で、野獣にあった時の為に、僕たち二人は生産隊で二頭の鋭い角を持つ大きな牡牛を選び、大きなビニールシートをその牛にくくりつけ、僕は更に、護身用に叔父の家に有ったあの大きな斧を携えた。
 それにしても、牛に乗るのにこんなに手こずるとは思わなかった。この牡牛ときたら気性がとても荒く、慣れない人間のいうことは全く聞かない。血走った眼は見開いて、まったく寄せ付けないどころか、その角をくねらせて、僕を突こうとする。
 そこで、従兄が手で牛の目を押さえつけているうちに、後ろからこっそり乗ることにした。雨の中では牛の背中は湿って滑り、ようやく乗ったものの、座ったと思う間に、バシンとまた振り落とされてしまった。もう一度乗った後、僕は思いっきり、牛の背中に身を伏せた。両足をぴったりと牛の腹にくっつけて、牛の動きに合わせると、身体は安定し、どうにかしっかり乗ることができたのだった。
村を出て、近道するために、あたり一面湿原になっているところを通り抜けたが、そこを通る時、従兄は僕に、このあたりは特に注意するようにと言い含めた。というのも、ここは春と秋にはいつも狼が餌を求めて、うろうろしているからだそうだ。鍋の底のような暗闇の中、泥沼にはまらないよう、ただ地面の水が放つ微かな光だけを頼りに、道を探った。
 雨水は牛の背にそって滴り落ち、僕と従兄は身体にビニールシートを巻きつけて雨をよけ、寒さをしのいだ。心は常に引き締めていて、周囲の草木の中の物音にも注意を払った。間もなく四時間も経とうと言う時、僕たちはすでに峠を越えていて、道の状態も良くなった。山を越えれば、トラクターのある場所まではそんなに遠くないはずだった。それでも、暗い夜道では心はやはり緊張していた。不意に路傍の木の枝が牛の太ももを打った。僕は熊かイノシシにあったのだと思って、進みながら路肩の真っ暗な草木の中や低い木の茂みを注意して見た。本当に何かがあの中に潜んでいるに違いないとびくびくしていた。
 進みながら、僕と従兄は二人とも、ちょっとおかしいと感じた。二頭の牡牛が角を振り動かして、憂鬱な声をあげ始めたのだ。僕たちは周辺に何かの物音がしないか聞き耳を立てた。しかし、後ろを振り向いたとき、びっくりした。後ろの、そう遠くない木陰に、いくつかの青緑色に輝く光が見えたのだ。僕は狼に遭遇したことを知った。
 従兄は僕に、絶対に慌ててはいけない、と言い、僕の手から板斧を取ると、路肩の樹に向かって数回振り、拳ほどの太さの枝を切った。
 緑の光は少しずつ、前に近寄ってくる。僕は、それが、村の犬よりずっと大きい二匹の狼であることをハッキリ見た。飢えて、ぺしゃんこになった狼の腹は地面につきそうなほどたれさがっていた。従兄は、特に冷静沈着になって、僕にいささか小さい方の狼を注視させ、自分は大きな方を睨みつけた。
いつの間にか雨はやんでいた。従兄はクヌギの棒を振り上げ、僕はあの鋭利な板斧を力いっぱい振り回した。二頭の牡牛も狼に向かって、鋭い角を揺らした。二匹の狼は僕たちから七、八メートルほど離れたところで立ち止まり、動かなくなった。僕は飢えた狼が、身体を曲げて飛びかかって来た瞬間に手を出そうと身構えた。狼の眼の緑色の光は、じっと僕らを見据えている。僕の持っている板斧は、ひんやりとした月明かりの下で、冷たい光を放った。
 二匹の狼は動かない。僕らも動かない。こんな風に小一時間ほども対峙していただろうか。やがて、二匹の狼は何度か吠えると身をひるがえして、真っ暗な林の中へ入って行き、やがて見えなくなってしまった。
従兄は、村には山で狼をやっつけた人もいるのだと言った。たった今、僕ら二人は手も動かさなかった。牛の角もあの二匹の狼の腹を突きさすこともできたというのに。「ああ、あの二匹の狼をやっつければよかった。狼の油は氷砂糖に漬けておけば気管支炎に効くっていうからな」などど、彼は悔しそうにひとりごちていた。僕の方は、この時、やっと、体中から冷や汗が出て背中がびしょぬれだと気付いた。
 明け方、あたりがうっすら明るくなる頃、僕らは路肩に、泥にはまったトラクターをみつけた。大雑把に計算すると僕と従兄は雨の夜、牛に跨ってなんと二十キロの山道を移動したのだった。
                                                (つづく)
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# by sayang0522 | 2016-12-05 10:00 | 日中交流 | Comments(0)